「花見」という行為に、何を求めて人は群れるのだろう。花か。酒か。家族サービスという免罪符か。
そんな哲学的疑問を胸に秘めつつ、我が家は春の休日、近所の某公園へと足を運んだ。徒歩圏内、我が家から最寄りの「混雑必至・桜の名所」である。とはいえ、わざわざレジャーシートを広げるほどの気概はない。毎年恒例の、散歩の延長線にある「立ち見型・家族花見」。それが我が家のスタイルだ。
参加メンバーは、私・妻・長男・次男・三男。誰一人として「花を愛でたい」などと言い出す者はいない。むしろ、
- 子どもたち → 新しくなった遊具で暴れる日
- 妻 → 昼間から堂々とビールが飲める日
- 私 → 財布の紐を問答無用で緩められる日
桜は、まだ満開とまではいかず。五分咲き、いや、せいぜい六分咲き程度だっただろうか。
しかし、そんな微妙な開花状況など、この公園の人波には何の影響も及ぼさない。春、それだけで、全人類が浮かれる権利を得る。
さて、子どもたちはまず遊具へ向かって一直線。「おまえら桜とか目に入ってるのか?」という問いかけは愚問である。彼らの目に映るのは、滑り台の角度、ブランコの滞空時間であって、ソメイヨシノではない。
散々遊ばせたあと、ようやく「花見らしき時間」へと移行。例のごとく、花の下を歩くだけの軽い散策。
公園全体には、例年通りの屋台がずらりと並んでいた。たこ焼き、焼きそば、唐揚げ、チョコバナナ。春の祭りに必要不可欠な、糖と油の百貨店である。
そんな中、公園の一角に設けられていたのが「サクラワインフェスティバル」。ネーミングはハイセンスだが、開催スペースは控えめで、ややこぢんまりした雰囲気。
その代わり、そこの屋台は一段おしゃれだった。キッシュ、ホットサンド、グラスワイン、マカロン。桜を背景にしたSNS投稿を意識したような布陣である。
印象的だったのは、そのおしゃれ屋台の前で、桜色のワイングラスを片手に、満開とは言えぬ桜をバックに笑顔で自撮りを繰り返していた中年男性。
どう見ても一人で来ていた。にもかかわらず、その笑顔はまばゆいばかりで、「これはこれで正しい春の過ごし方なのか…?」と、私の中の価値観が一瞬揺らいだ。たぶん、彼は誰よりもこの空間を楽しんでいた。たぶん。
我が家はというと、当然のように屋台に吸い寄せられた子どもたちに、トルネードポテトやチョコバナナを買わされ、さらに妻には「せっかくのお花見だし」という言葉を錦の御旗に、ビールを二杯、私の小遣いから捻出させられた。
私は何も飲んでいない。再掲するが、私は一滴たりとも飲んでいない。
飲まぬ者が支払う。それが、この国の春の風物詩なのかもしれない。
こうして、今年の花見もまた、花を観る余裕など微塵もなく終了した。
子どもたちは泥だらけになり、妻は上機嫌で、私はいつも通りの財布事情を抱えて帰路についた。
来年もまた、何も飲まずに支払う予定である。